やっぱりLiveが好き

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「四月大歌舞伎」 4/5,8 歌舞伎座〈桜姫東文章・上の巻〉

桜姫東文章〉は、映像を録画していたもののまだ見てませんでした(笑)💦

去年、七之助さんに玉さまが桜姫を教えてらっしゃった、という話を聞いて「いいなぁ。玉さまの桜姫も拝見したいけど…」という、鷺娘同様に『恐らく叶うことがないであろうこと』として思ってました。

が!!本当に、現実に、上演決定とは!
全く思いもよらなかったので、決まって嬉しいということよりも、驚きと、ほんとかな?という信じられない気持ちの方が勝っていて。

そんなことをしているうちにあっという間に初日が開き、行ってきました!
初回の感想を書く前に、自分の二日目がやってきたので💦合わせての感想。



桜姫東文章・発端〉

桜姫の前世ともいえる、稚児の白菊丸と僧侶の清玄が心中しようとする場面。

事前に映像で観た時に、この場面の重要さを感じていたので、今回はあるだろうか、削られていないだろうか、と思ってました。
でも全ての発端の場面‼️…ありました‼️よかったです(笑)そりゃそうだ(笑)


花道を歩く玉さまの白菊丸と、にざ様の清玄。
白菊丸はその幼さからだけでなく、清玄をただまっすぐに想う気持ちが外側にも溢れていて、清玄に寄り添う場面がとても美しかった。
白菊丸は海に飛び込み、清玄は決意しきれず生き残る。にざ様の清玄も白菊丸を想ってはいるものの、飛び込もうとすれば波が打ち寄せ、その度に決意が砕かれる。
にざ様の清玄を観ていたら、非常なわけではなく、ただそうなってしまった、という感じ。



それから17年後の話…ということを幕の前でひとり口上のような形でその解説をされる役が、今回は功一さん!
事前にチラッとその情報を目にしていたけど、実際に拝見すると、この場面は緊張するだろうなぁと思います。
六月に下の巻上演ということも挟み、場をしめて爽やかに去って行かれました。


そして!桜姫の登場‼️ずらっと皆さんが並び、豪華で目にも鮮やかな光景。

玉さまの桜姫は、まばゆい!!!なぜこの間上演されなかったのか、不思議でたまらないほど可愛らしい姫。


先月、隅田川で舟長だった鴈治郎さんが、今月は桜姫のいいなづけでありながら敵役‼️千穐楽から日が経っていないので、今月は悪役というのが結構こたえる(笑)💦


にざ様の権助の登場。
もう、すっと入って来られた瞬間に、そこに佇んでらっしゃるにざ様があまりにもシュッ!と格好良くて!!!

シネマ歌舞伎の〈籠釣瓶花街酔醒〉
にざ様栄之丞が柱か何かに寄りかかっているそれを観ただけで感じた、とてつもない色気。
今回の権助から、それと同じかそれ以上の色気が放たれていて衝撃すぎた…。

清玄とは話し方はもちろん声の出し方が違う。清玄はスッと出すような声に聴こえるけど、権助は喉の奥に悪いものをためてるような(笑)
なんといったらいいか、こういう人物の日常が想像できて、それゆえその声になるよなぁ、みたいな(笑)‼️
だからそんなことを考えなくとも耳に入ると自動的に『こういう背景の人物』を体で感じ取れているんだと思う。説明せずとも人物像を伝えているというか。

その人物の心で生きることは当然ながらこういった細かいところをたくさん表現しているのがにざ様だなぁと思う。

表情も、この一瞬で何を考えどういう気持ちでいるかというのが、手に取るようにわかる。にざ様は、本当に『伝える力』が凄い。

他にも権助が花道を歩くときや、オペラグラスでお顔をよく見たときに、目がキラっキラとしていてその光が凄い。
役柄的には『ギラッ』だと思うけど(笑)、その光が権助の企みというかそういう心の内を写し出してるようにも見え、ご本人が意図的にできるものではないと思うけど、そういうものすら権助を演じるにざ様の強さ、のようにも感じてしまう…

にざ様の権助のお姿がとてつもなく格好いい。
目のキラリを確認した花道でも、その歩く姿、姿勢、↑にも書いたけど、その佇まいが魅力的で、人を惹き付ける力が凄い。


そんな権助に再会した桜姫、それまでの気にもとめない態度から一変して、意識が完全に権助の方にある。

そこから自分のいる草庵に上がるように言い、着物の袂で顔を隠し、すりすり合わせる様子が可愛い!!!純粋に照れている?感じが、あのすりすりから伝わる(笑)!!
ただ合わせて首を傾げていたらそうなるとか、そういうことではないと思うんです。
姫のまんまの心があの恥じらいに表れているようで、見ているこちらも嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになる。

にざ様と同様に、玉さまもその人物の心であり伝わる表現をされている方なのがよくわかる。


…この桜姫が居る草庵に、権助が上がり二人きりになったとき、客席の空気が一変‼️
どんな演目の、ここぞ!という場面でも、なんとなく気の散った雰囲気を感じることが今まで多かったのに、この場面になったら全員が一気にこのお二人に意識を集中させ、見入ってるのが肌で感じられる位だった。
それだけ固唾を呑んで見たくなるお二人。
『人を惹き付けるほどの魅力』っていうのはこのことを言うんだよなぁと思う。

桜姫が、権助を忘れられなかったことや、今の思いを伝えるところも、ただただ自分の心のままに素直に生きている、という感じ。
でも、物凄く強い芯を持った人物という程には感じなかったのにこの展開に無理がないのはなんでだろう…と思ってました。
そのことについては最後に書きます。


そんな桜姫に対して権助が『しめしめ』感を思い切り出しているのに、にざ様から感じられるのは格好良さと艶。
こんな表情!とか、立ち姿とか、もう細かいひとつひとつから感じられる色気が凄い。
冗談ではなく世の中で一番色気のある男はにざ様の権助だって言いきってもいいだろう、と思う。凄すぎてクラクラしましたもん(笑)

この時8日の日は若干距離があったので、双眼鏡で見たり外したりをしていたけれど、ずっと外さなければ良かったなと思いました(笑)
この時のお二人の表情を、その表情を見ているのが凄く楽しかった?ことを、どう表現したらいいんだろう…(笑)
『しめしめ』と『素直な喜び』といえばそうなんだけど、二人ともその気持ちに対してまっすぐな表情をされてるから、まじまじと見ていたい、そんな気持ちだったんですよね。ちょっと書くのが難しい。


帯を取られて取って、そして御簾が下りる直前お二人の色気がとてつもなかった!!!本当に凄かった(笑)!!!

そういう意味だけでなく(笑)にざ様玉さまが演じられた昔の映像は観たことないけれど、観ていなくても、常に〈今が一番〉を更新して来られたお二人のこと、きっと今のお二人が今までのどの時より一番の桜姫と権助なんじゃないかと思う。


御簾が下がり、そこに現れた歌六さんの残月と吉弥さんの局長浦。
御簾は下がってるから中は見えないわけで、覗くお二人の反応から想像(笑)
歌六さんも吉弥さんも、本当に上手い方なんだなと思う。上手いなんて失礼かもしれないけどここの場面でもユーモラスだし、この後の、清玄に「人を救う」という言葉をわざと強調して聞かせ、清玄に罪を引き受けさせようとする残月のいやらしさも、自分達の悪事がばれたときの悪役感も、細かくて表現豊かで、観ているのが楽しい。


不義が明るみになり、残された桜姫が責め立てられる場面。
5日の時は、この時の桜姫の着物の乱れ方が鎖骨の片方だけ衿が少し大きめに空いてて、その感じが凄く好きだった!!(笑)
空きすぎず、でもちょっとバランス崩れて空いている感じが!!
あと、髪の毛のほどけ具合、ゆるみ具合もちょうどよく(笑)きっと開きすぎても乱れすぎても下品になってしまうだろうし、絶妙なその感じが物凄く色っぽく美しく見えて大好きでした‼️

8日の日はそこまでではなかったのでそこがちょっと残念(笑)💦


追放された二人、その桜姫の元に、姫が産んだ子供を預かっていた夫婦が返しにやってくる。
その時の旦那が玉雪さん。花道から現れて、奥さんが桜姫に子供を戻し二人が、姫を笑いながら去っていく。
その姿を見てるとなんだか楽しそうに見える(笑)
この演目を見て思うことは、登場人物が皆イキイキして感じられるということ。
話の作りの上手さなんだろうと思うけど、見方によっては意地悪だったりわがままなんだろうけど、誰かにとって都合のいい〈良い人〉で終わらない、人間らしいところが魅力的に感じられるのだと思う。


最後の場面。
自分のしたことにより人を巻き込み、招いた今の状態を嘆く桜姫。
だけど自分の子にも見える子供を抱える清玄のことを見てみぬふりができず、清玄から持たされた薬を知らずにまた、清玄に渡す。

…こういう伏線が繋ぐ物語って、たくさんあるけれど、何か強力なものによって紡がれているようにも感じてしまうのがこの演目の、もしかしたら玉さまにざ様達が演じることで運命的なものや説得力が生まれるのかも、と思う。


桜姫が白菊丸の生まれ変わりだと信じる清玄。
罪をかぶるときも、桜姫の子を守りながら姫を追い続ける時も、それが白菊丸への想いのようにまっすぐで、権助とは違う濁りのない声にも表れてる。

清玄は桜姫に気づくが桜姫はまだ気づかず。清玄の想いが執着にも感じられるような場面。

桜姫は肩にかけていた簑を外し、清玄が使い、残していった傘を差す。
この桜姫の、動きのスピード、ため、着物・持ち物・身体全体で表す線が美しすぎてため息がでそうなほど。ここで上の巻が終わる。


玉さまの桜姫について書いてある本のことを教えてもらい少し読みました。それがこちら↓

『戦後歌舞伎の精神史』(渡辺 保)|講談社BOOK倶楽部

この中の『第四章 子の時代 桜姫の神話』で、歌右衛門さん雀右衛門さんが演じても、三島由紀夫さんが監修しても上手くいかず、郡司正勝さんという方の補綴演出で、玉さまが演じた時に、成功したことが書かれている。
なぜそれまで成功しなかったのか?それは

彼らは、桜姫を一人の人間としてとらえようとした。統一された人格、個性、内面と外面との一致した心理的な人間として描こうとした。

最初のほうで↑自分の心に素直でありながら真の強さとかをやたらと感じさせるような人物のようにも感じなかったのは、こういうことかと思ったんです↓

南北が書いたのは、桜姫という人間の物語ではなく、強姦によって世界を失った女性が、自分の世界を探し求めてついには現実の世界を横断していく物語であり、主人公は桜姫であるが、その主人公はその桜姫を通して、あるいは桜姫を操っている世界そのものだったのである。

主人公は桜姫でありながら、桜姫を操っている世界そのもの。そーゆーことか!!!
凄い力が働いているように感じるのに桜姫の意思や行動だけではない何か。
理解したような、しきってないような感じではあるけども(笑)なんだか掴みかけてる気はする。

桜谷草庵の玉三郎がすぐれていたのは一人の人間が過去を回顧するのではなく、事件の顛末を語る語り手と、その物語のなかの自分とがハッキリわかれていて、しかもそれが微妙に交錯していたからである。

こういうことを頭に入れてしまうと、自分の感覚よりそれに合わせにいくように見てしまうけど、この演目の不思議な力はこういうところにもあるんじゃないか、と思うので、頭に入れたまま、次回観てみようと思います。

桜姫東文章はとてつもなく面白い!!
それは下の巻でさらにそう感じるんだろう、と思っています。