やっぱりLiveが好き

目の前の空間を味わうのが好きな人の記録🍀

〈隅田川〉のカーテンコールについて

隅田川にカーテンコールがあって良かった!
と思う方は、読まずに閉じてください(笑)
本編の感想の前に、思ったことを少し。




三月が始まってだいぶ早い段階で、
Bプロの地唄舞の幕が閉じても拍手がやまず、
カーテンコールがあったことをどこかで
ちらっと目にしていて。
で、〈隅田川〉を実際に観て、
「この演目にカーテンコールはない方がいいな」
と思ってました。

そう思ってたらやっぱりカーテンコールに
なりました(笑)



隅田川〉は我が子を亡くし、錯乱してしまう
母親と、その母を我が子の眠る場所へ案内する
情の深い舟長さんの話で、
人間の感情を思い切り感じられる演目だと
思います。

だからそのままの世界で終わってほしかったな
というのが私の本音で。
これほど心が揺さぶられる演目は、
深く感じたまま終わりたかった。

あの役を演じて下さった玉さまと鴈治郎さんに
再び舞台上に戻ってほしい、
幕をあけてほしいというのは、
あの世界、空気、心を大事にしていないように感じました。

あのままを感じていたいという、私のエゴかも
しれないですけども(笑)



ここからまた話がずれますが、
劇団新感線をよく観ていた時(今は観れてない
ので違うかもですが)
劇場の空気、観客のきもちがそこまででない
感じでもスタオベが当たり前になってて。
高田聖子さんも自然と拍手したくなるような
素敵な役者さんだれけども、出の時や
カーテンコールでの拍手が、異常なくらい
一人大きいことも当たり前になっていき…。
素晴らしいから拍手に反映されてるとは
思いつつ、過剰さ不自然さを感じてました💦

『当たり前・自動的・何かを期待する』
ことが動機のことって、心と連動してないから
やっぱり変だったと思うんです。


それと同じ感じを今回の隅田川での
止めようとしない拍手(←あえてそう書きます)
にも感じました。

内容や流れを無視したそういう動機からの事は
不粋だなと(笑)野暮さを感じてしまうんです。
江戸っ子でも下町の人でもないですけど(笑)
これは〈隅田川〉に即してないし、
玉さまや鴈治郎さん達に対して、
感動したことを伝える術は、この形じゃなくて
いいと思うんですよ。
無理やり形にすることがすべてではないし、
良かったことを広めて、客席が埋まったほうが
よっぽど良い、と私は思います。


玉さまは演目の世界観を保ちつつも、
拍手に応えてくださる方ですけど、
そこをわかった上で、当たり前のように
過剰に求める客席のように感じました。


地方公演では、「この土地にきてくださった!」
みたいな意味合いもあって、
カーテンコールの雰囲気にもなるし、
合うのでいいと思うんですが。


何でもかんでも「また出てきてくれたらいい」と
感性を鈍らせて、欲により質を落とす観客には
なりたくないです(笑)

舞台に関わる方達は素晴らしいものを
創りあげてくださっている。
それも最後に観客が観て、共に劇場内の空気を
創るからこそ完成する。
それぞれが自分で感性を育てて、その世界、
観たものを心でしっかり受け止めて、
自然とそれに見合うような状態を創れるようで
ありたいし、そのような客席になったらいいな
と思います。