人のご縁、いろんなことがあって
予定外の日や22日に行くことができて
本当に嬉しかった!
またあらすじも丁寧に教わっていたので
迷走することなく観れました(笑)
〈昼の部 道明寺〉
玉さまが出てこられるのは最後の道明寺。
その前までで印象に残ったのが
孝太郎さんの、立田の前の人の良さの表し方と上手さ。
勘九郎さんの良い意味の軽さと存在の明るさ。
秀太郎さんの情の深さがありながらも貫禄のある役。
橘太郎さんの憎みきれない小悪党っぷり。
時蔵さん梅玉さんのそれまでの背景を存分に滲ませる凄さと、歌六さんのかっこよさ。
足りないと思うのでも、過剰と思うこともなく
「話の中でその役で在る」ことと「配役がベスト」
だと思った。
今まで観たことがない演目だったけども、
そんなことを思うくらい、全体の良さ。
苅屋姫の千之助さんについて。
孝太郎さんのブログに
玉さまのことが。
特に今回、千之助が女形としても大役の
「苅屋姫」を演じるにあたり
道明寺の女形のトップでもある玉三郎お兄様の
一月からの猛特訓には、感謝し尽くせません
元々「苅屋姫」はこの数回は私が演じて来た役でもありまさか十代の息子に声が掛かるとは夢にも思いませんでした。
ほぼ未経験な女形で大役、いくら興行主からのお声掛けとはいえあまりにも無謀だと考えた自分でしてお断りしようか?とも思った時期もありました。
が、玉三郎のお兄様は
『千之助は、いくつなんだい?』「はい、十九です。」
と答えると『もうやらせないと』
ようは経験を積ませないと…とのお言葉それから本当に手取り足取り、
女形は勿論ですが、役者、演者としての根本的なところから御指導下さりお兄様の指導が息子に理解出来ないと
いけないと思い僕は保護者として又共演者としてお稽古に参加させて頂きましたが、
反対に自分を見直す機会を与えて頂き
つい忘れてしまっている
つい逃げてしまっている
根本的なところを見直し、又普段自分が後輩君達へ伝えている事が正当か?の見直しも出来て親子で学生になった気分でもありました。
元々、私は先代芝翫伯父さんの薦めもあり
女形になりました。
当時芝翫伯父さんに教わる事を
『士官学校』=「芝翫学校」
と呼んだ事もありましたが、
その伯父さんが
「玉三郎くんは首席の卒業生」
とおっしゃる事も、
当時玉三郎お兄様が大学生なら
僕は小学生の高学年位だったかな?今回は『玉三郎学校』
へ息子と入学
息子は小学生低学年、僕は高校卒業出来るか?
の瀬戸際位かな…そんな息子へ本来僕達が最低数年を掛けて自分なりに学び理解する内容を
手品の種明かしの様にお教えになる部分もあれば
「芝翫学校」の理念と同じで
①をクリアーしないと②のステップへいかせない
そんな授業、お教えも人によって様々な教え方があるのですが
玉三郎学校は理にかなった誰でもどのレベルの人でも理解出来る贅沢な教室でした。僕は昨年の暮れから、
息子より先に玉三郎学校へ入学し
一月に新橋演舞場で「雪姫」を経験し
僕より先に現役の学生でいた後輩の児太郎くんに色々助けてもらい、それはより良い授業の受け方
又校長の言葉の理解の仕方などを教わり
お陰で良い経験をさせて頂きました。
全部大事だったので、ほぼすべて引用させていただきました(笑)
孝太郎さんの記事を読んで
身内でもできなかったことを、
どのレベルにいる人でもわかるように
伝える、教えるということを
丁寧にしてきた玉さまの凄さを知ることができて。
千之助君だけでなく、孝太郎さんをも変え
こんなにも良い流れが起きていたんだなあと知って
感激した。
孝太郎さんも、自身で刈屋姫を演じたことがありながら、
玉さまに一から教えてもらうということ。
あといくら先に直に教わっているとはいえ
年下であり後輩である児太郎さんに聴くことも、
簡単にできることではないよなぁと思った。
それだけでなく、ご自身のこと、後輩の方達へ伝えていることの見直し…
本当に色んなことがあった期間だったんだなぁと思う。
それくらい様々な人に色んな気づき、
機会を与えることのできる玉さまの凄さを改めて感じたと同時に、
そういう方が周りに居る、ということは羨ましいなぁと思った。
千之助君はまだスタートラインに立ったところなのかなぁという気がするし、
今回が、彼にとってどのようなものになるか、していくかということは
やっぱりご本人次第だけど、この機会が自分の中で何か意識が変わるものであり、活かしてくれたらなぁ、なんて思いました。
孝太郎さんの記事を読んだあとに、
「そういえば千之助君、今の彼なりに、一つ一つの動きや台詞を丁寧にしていたなぁ」
ということを思い出した。
後だしと言えばそれまでなんだけど💦
でも、やっぱりそういう良さはちゃんと伝わってた。
わからないなりに書いてしまうけど、上手さはきっと後からついてくる。
ただ、そういう大事な部分て本当にそこがなければいけないものだし、だから上手さは置いといても伝わるんだと思う。
逆に技術ばかり身に付いても、そこがないひとは、人の心に届く芝居にはならないような。
本当に大切なことを、玉さまから教わったんだなぁ、と思う。
そしてにざ様の菅丞相。
自らが彫った木像が丞相の身代わりとなっている姿を演じるにざ様。本物の菅丞相。
姿形はどちらも同じなのに、『実は木像』であるときの動きが、
特に最初に観たときより二度目の方がより人形のような動きで、そこに人間らしさや心を感じなければ感じないほど、自ら丞相の身代わりとなっているような感じがした。
本物の菅丞相の時は、魂があり心を感じ、だけど仰々しさなんて微塵もなくて、
でも立場上その心を制御しなければいけないという、その中から溢れる感情が伝わってきた。
玉さまの覚寿。
刈屋姫、それから成り行き上、立田の前も折檻する場面。最初に観たときは躊躇の気持ちを強く感じたけれど、二度目に観たときはまた違って、怒りの気持ちがより現れてる気がした。
でも、子を想う気持ちが滲んだり、一色でない感情を、だんだん移り変わるマーブル状みたいに表現されてて、
その表しかたというのが台詞を一つ言うにしても
肚の真ん中から、感情の塊のようなものをぼわっとつき上がってくるように出ているように感じる。
台詞が出てくるときに限らず、玉さま自身がその役であり、その魂であってそこに存在している…それはにざ様と全く一緒。
覚寿が、娘の立田の前が殺されたことを知り、その犯人である宿禰太郎を殺して復讐する場面。
今までの悟りの境地の尼のように思われていた覚寿の心情の吐露と、人間の感情むきだしの覚寿の現れ。
“宿禰太郎の“刀で、短い刀でなく長い刀を受け取り、
無念さ、恨み、怒り、悲しみ、色んな気持ちが現れ、強くなり、
身体で、言葉で滲ませながらその想いを吐き出しながら復讐を果たす。
この場面もその感情の現れが一色でなくて、
全身から表現される覚寿そのものだったと思う。
その後の、菅丞相と刈屋姫を見守る覚寿の眼差し
も深くて。
にざ様の菅丞相、玉さまの覚寿。
魂で演じるお二人で観られて、
また今回は周りの方々の配役も含め、本当に素晴らしかった。
〈羽衣〉
白髪頭の覚寿から一転、可憐な天女が花道から現れる!!!
舞台上には地方さんと、羽衣を手にした勘九郎さん。そこへ玉さまの天女が歩み寄る。
淡く薄い若干橙寄りの桃色の着物にすっきりとした黒髪。
羽衣を奪われた時は、その哀しみから視線も表情も下に沈んでいるけれど、
返されたあと、天女の視点がぐん!と高くなり、地上ではなく天から見ているようになる。
哀しみの時も、天女の目には、歌詞の光景が映っていることがわかる。
一瞬、鷺娘を思い出させるような振りがあるんだけど、そのときも別の嬉しさがあったなぁ。
で、天界からの視点になったときも、すべてを見渡すような大きく広い光景が伝わる。
玉さまの目にはその光景が見えている、って前から思っているけど、今回もそうだった。
勘九郎さんが、勘三郎さんから、玉さまが踊るときそこに桜が舞うというようなその話を聞いていて、
実際に勘九郎さんが吉野山で共演したときも、玉さまには確かに桜が舞っていた、というようなことを仰っていたときがあった。
今回の勘九郎の目にも、それが映っていたように思う。
品のある確かな躍りをする勘九郎さんと、玉さまの舞踊の組み合わせって大好きで、
二人椀久の時もよかったけど、今回も素敵だった。
どうにも勘九郎さんの役が玉さまの役に置いていかれてしまう、という切ないところも好き。
毎回そうなんだけど、玉さまの舞踊を観たあとは、
嬉しさ、喜びの感情で身体がいっぱいに満たされて
なんて幸せなんだろう!!ってニヤニヤが止まらなくなり、幸せすぎるあまりため息がでてしまう(笑)
今回も至福の時間でした。