やっぱりLiveが好き

目の前の空間を味わうのが好きな人の記録🍀

「坂東玉三郎 映像×舞踊公演」口上その1 八千代座 11/2,3,4

去年初めて訪れた八千代座。今年は、もう観ることのできない「鷺娘」の最初と最後、一部とはいえ玉さまが踊ってくださる・・・ここで一生分の鷺娘を観ないと!!って、三日間観ることに決定。その選択、間違ってなかった。三日間のうちどの日の記憶か曖昧になってきたのでまとめて。またあとで書き足すけれどとりあえず。

 

<口上 演目以外のお話し>

拵えがいつもと違う!!上が黒~裾が薄い紫のような色の振袖姿に、黒の羽織。お顔を上げられて、客席を三方観てくださってからのご挨拶。キリッ!!

素敵・・・。やっぱり玉さまと凄く近い距離で嬉しい・・・。

  • 平成2年に手紙をいただいて、7月に下見、11月に初めて公演、青年部の方の卒業の記念?に公演*1で、帰りに(その方達に)「さようなら、ごきげんよう」ではなく「またね」と言ってしまった(笑)最初から10年20年と言われていたらお引き受けしたかどうかわからなかったと思う。次の年、そのまた次の年、といううちに27年たっていた。
  • 一日目は越路さんのことについてかなり細かくお話ししてくださった!!今年の三月の越路さん追悼コンサートに出演してほしい、とのお話があり、何をお話しすればいいんだろう、と思って同じくコンサートに出演される幸四郎さん・・・本名、昭暁(てるあき)さんていうんですけど、昭暁さんは何お話しするの?と聞いたら舞台で共演したことがあるからその話をする、と。私は共演したことがないからお話しすることがない・・・ずっと見てきたんだからそれをお話しすれば?とと言われた。10~15年、歌の練習はしてきたけれど、お話しだけでなく歌ってみたら?と言われ、それが縁で、CD、コンサート、という流れになったそう。そこから7日「うたコン」の出演の宣伝。「七時だか八時から生放送・・・」ざっくり、アバウト(笑)
  • 小さい頃は踊ることが大好きで、その延長でここまで来た。こういう舞台で踊ることができるなど考えていなかった。玉三郎襲名のお話が来た時も、その意味や重さをわかっていなかった。襲名した方が役をもらえるからと思って(笑)
  • 踊ることは好きでも恥ずかしがり屋だったので、家族の集まりでも進んで出て踊ることはなかった。その性格をわかっていた両親は、その辺に着物を置いておいて、遠くから曲をかけていた。すると勝手に踊りだすのを知っていた(笑)すると観たい人が近所から集まってきて・・・という感じだった。
  • 口上の拵えについて。解説をするのでいつもの袴ではなく、江戸時代の女形の普段着にしました、と。頭につけている紫帽子について。昔は鬘がなかったので、女形が前髪をそり落としている部分を隠すために着けていたのだそう。
  • 襟を抜く、ということ。襟をぬく理由はたぼが着物にかからないようにするためだから、抜きすぎてはいけない。遊女などを演じるときには抜くけれど、娘の役の時には抜かない。でも今日は急いでいて抜きすぎてしまったから見ないでください(笑)と。
  • 義父が女形ではなかったからか、たくさんの先輩(歌右衛門さんをはじめお名前がズラリ)たちが教えてくれた。言われたことを次の日までには直すようにしていた。
  • 5分の1しか踊りませんが、解説をするということでお許し願いたい、と。玉さまがご自身が踊ることを「本体」が踊る、と仰って、ご自分でも笑ってらっしゃった(笑)その後も「本体」呼びが続いたので、お気に入りワードになったのかなぁと(笑)
  • この3~4年、阿古屋を後輩に教えている。でもその後輩とは時間が全然合わないから、誰かほかの方に教えてもらって、と言っても、今それを出来る人は自分だけ。伝えることが難しいのでNHKで映像と解説で残している。
  • 踊れてあと数年、と思っている。人間、なにが起こるかはわからないので。若いといわれるが若く見せているんです(笑)
  • 後輩の指導に回ること、若い頃から思ってきたことだが、作品を作ることをしていきたい。道成寺、鷺娘のような派手な舞踊はもう無理だけれど、大人の芝居(この辺り曖昧)をお見せできるようになれれば・・・。

いままでに聞いたことのあるお話もあったけど、先輩方にたくさんのことを教わったこと・・・その直後に仰っていたわけではなかったかもしれないけど、その経験が今後輩の方々に伝えることにつながっているのだろうな、とか、このお話があのお話につながっているのだろう、とか、そういった繋がりが見えてそのことを書き留めておきたかった。後輩、という言葉を出すときにしばらく考えられてから、その一言を仰ってたから、具体的にどなたか、例えばコタさんとかを思い描いて、またはそのことにまつわる何かを思い出されてお話しされてたのかなぁ。

踊れてあと数年、そのような話で終わってしまった時は、何となく曖昧に思っていたものがあと数年、なんていう単位で終わってしまう、実際は演目などによりもっと踊っていただけるかもしれないけど、そういった具体的な数字が示されてしまって、ショックだった。また別の日の口上では、大人のお芝居をお見せできれば・・・等と仰っていたので、たとえ踊りでなくても、舞台上で玉さまにお会いできる、その可能性を見いだせて嬉しかった。でも、四日の日の口上は、どちらかというと、もうそんなには踊れないけど、作り手などにまわりたい、というおはなしで終わってしまったんだよね。考えが変わった、とかでなく、玉さまの頭の中にあることをその時に何を出していただけるかという違いなのなかと。だから、踊ることはなくなってしまうかもしれないけど、お芝居で、などではあるのか・・・作り手にまわるだけでなく、そうあってほしいな、と思う。

最後に、山鹿とこの八千代座になり変わりまして、今後も・・・というご挨拶。山鹿という土地、八千代座への思いを持っていらっしゃる。27年という長い時間、その間、ほぼ毎年、次の年は何にしよう、どうしたらお客様に喜んでいただけるか、とずっとずっと考え続けていらして、もうやるものがない、そのことは何度もお話しされていて。安易に再演をされないのも、喜んでいただきたいから、失礼に当たらないよう、そのように考えていらっしゃるからかな・・・私はほとんどを観ることができていないから、再演熱望してるけど、簡単にじゃあってわけにはね。今回の映像×舞踊公演も、そんな中から考え抜いてくださったアイデアなのだろうと。もう舞い納めてしまったお一人での道成寺、鷺娘。この二つをもう一度、となったときにどのようなお気持ちだったのか。八千代座で踊っていただきたい、鷺娘をもう一度観たい、そういった声が届いてるからこそ、私たちのために一部とはいえ鷺娘を踊ろう、と決めてくださったけど簡単に、じゃあやります、とはならないはず。でもその上で、こうして踊ってくださった。そのお気持ちを思うと、ここに至るまでのすべて、それを決心してくださった玉さまに感謝しかない。

*1:玉さまのこの細かい記憶力。ちなみにその時の公演内容→第一部(昼)再春菘種蒔・晒女・保名 第二部(夜)夕霧・玉兎・羽衣。最初から全開。