やっぱりLiveが好き

目の前の空間を味わうのが好きな人の記録🍀

「六月大歌舞伎〈第三部〉ふるあめりかに袖はぬらさじ」6/27 歌舞伎座 ②

〈第一幕 行燈部屋の場面〉

亀遊のいる行燈部屋に、行燈をバタバタと置きに来る人たち。部屋を開けると真っ暗な中に灯りが入ってくるだけで、この光景からもの悲しい感じがします。見にいった友人によると、歌舞伎座の舞台の間口が、この行燈部屋という設定には大きすぎるからか、黒幕で覆われている部分があったそう。そこには気づかなかったけど💦それだけ狭い部屋ということですね。

 

そこへ玉三郎さん演じる芸者・お園がやってきて雨戸?を開けると、外の明るさとその空気を感じられるような音がパッと入ってきて、(うろ覚えなので音は自信ないけれど、これだけで横浜という感じがあった気がします)軽快で明るいお園の話しっぷりでその場がさらに明るくなり…お園さんが窓を開け、言葉を発すると、シネマ歌舞伎で見ていた「あの空間、あのお園さん」が目の前に本当にやってきた、ちょっと信じられないようなそんな気持ちでいっぱいでした。

お園さんの口調、声の高低、緩急、体に現れるものすべてが、懐かしくて「それそれ!」って言いたくなるような感じ。

そして亀遊役の雪之丞さん。親が死んだことも売られてきたことも、受け入れてこれたけど、体ばっかりは弱るとそうはいかない、みたいな台詞があって(全然違ったらすいません💦)自分の境遇をそんなふうに感じてやってきたことに、この人が背負ってきたことの凄さ、重さを感じずにいられなかったです。

消え入りそうなこの人にやどる小さな灯が、福之助さん演じる藤吉のことで、演じた福之助さんはもーーーー見事でした。見事なんて偉そうな言い方をして失礼かと思いますけど、まっすぐで青くて、役の心を本当に丁寧に、まったくとりこぼしなく演じられてて。「藤吉」という人物の心を連続して一瞬一瞬を生きてらっしゃった、本当にそう感じました。

藤吉とお園さんが話しているときに、聞いてしまう亀遊といい、もうすべてが良い‼️なんて言ったらいいかわからないくらい、全部が素晴らしくて「今観ているこの瞬間以上のものなんてない」そう思えるくらい、それそのものに感じました。

雪之丞さんは、日本振袖始で拝見したけれど、そのときはとても細かいお芝居をする人という印象だったんですが、今回はさらにその細かなひとつひとつが滑らかにうねりのようなものになって繋がって、その心と揺れがこちらにまで本当に丁寧に感じられて、もう素晴らしかったです。

お園さんが亀遊にゆでたまごを剥いてあげて、塩をつけて食べなさいというところや、藤吉と亀遊のいいところにお邪魔してしまうところとか(笑)こちらがコミカルな部分の、細かいことを見ようとしなくなるくらい自然で楽しくて。(間がよくて、とかそんなことを言い出す暇もないくらい目の前で演じられてることが完璧)

という行燈部屋の場面でした。

 

〈第二幕 岩亀楼 引付座敷の場面〉

商人イルウスを接待する場面。この時に最初の方で踊ってらっしゃる方、新派の森本健介さん。この方の、この時代と場所に生きてらした方なんじゃないかというほど溶け込んでいて、醸し出す雰囲気があまりにも「それそのもの」で素晴らしくて目を引きました。

そして芸者さん達が三味線や太鼓を演奏してらっしゃるんですが、これ以降の場面がさ、どの場面でも、「その雰囲気」そのもので、あまりにもその感じが自然で、もーーーー素晴らしかった‼️新派の方の凄さを痛感しました。悪目立ちすることもなく、「無」なこともなく、本当に「その役」として存在する、ずっとそうでした。

 

そしてアメリカ人イルウス役の桂佑輔さん。外国の方を「それっぽく」、下手するとギャグにも使われかねない、日本人が真似するときのような外国の方、ということは一切なくて、外国の方が見ても不快に感じないであろう、それくらいそれそのものを心で演じてらっしゃいました。

イルウスのために呼ばれた唐人口の遊女には、新派の方と歌舞伎の女方、玉朗さんなどいらっしゃいましたけど、どちらがどう、という違和感は一切なく、本当に自然に観ていました。マリア役の伊藤みどりさんは記事に取り上げられたりしていたので事前にそういった情報を読んでいたけれど、綺麗所として扱われない遊女の方だけど、ただ表面的にそういう役というより、そういった人生を歩んできた人として存在していて、昔からこの役をされてきたのもあるかもしれないけど、出てこられる時間は少なくても、たしかな「その人」を残していった、そういう感じがしました。

 

日本人口から呼ばれ、病から回復してきた亀遊。行燈部屋の時と違い、凛とした芯を感じさせる佇まいで、声の感じもしっかり、かつ遊女としての線というか格を守っている、そういった感じがして、亀遊という役そのものでした。

 

そこに通訳として居合わせることになった藤吉の不器用さ、心の葛藤を表す原因は亀遊のことにある。という気持ちの向きをはっきり感じられて、亀遊の戸惑いと辛さが表れる一瞬の表情も素晴らしかった。

皆がいなくなった後に現れるお園さん、やっぱり登場から美しかった!亀遊がその役どころを担っているから、あまり前面にそういうものは出さないものの、その歩いてくる姿、着物の動きかたとか、さりげないのに惹き付けられます。

 

〈第三幕 亀遊の自害後〉

藤吉と一緒になれないことを嘆いて自害した亀遊の死後、お園と藤吉が初めて話をする場面。お園さんの本当の想い、嘘をつくのは「商売として」であるということ。また鴈治郎さん演じる岩亀楼の主人が、藤吉の本音を見通していたこと、それくらいわからなければこの商売はできない、ということ…人が持ついくつもの面、想い、それらがひとつではなく、本音でなくともそれをもたないと成立しないことがある、そういう矛盾を、責めることなく受け入れられる場面のような気がします。

そうして使い分ける二人に対して、藤吉は亀遊のこと、出回っている「嘘」が本当のことであったかのように受け止めようとしている、わるくいえば、すり替えようとしている、そのことに対して、藤吉だけは亀遊のことの本当のことを覚えていてほしい、とお園は頼むのに、藤吉は軽薄にウソを本当にしてしまう。

お園が今まで体験して感じてきたこと、周りの者を見てきているなかで自分が請け負ってきたこと、それらと藤吉の覚悟の違い、のようなものを痛感します。

 

〈第四幕〉

それから五年後、亀勇を名調子で語るようになったお園さん。それが思誠塾の門下生の者達の前で嘘がばれるとき。

ここまでに亀遊の話を聞きたいと訪れに来た人達や、最初は信じていた門下生を見ていると、都合よく歪めて受けとりたいとする人の危うさがよーくわかるというか、人間てこんな生き物なんだな、っと、また藤吉はどう過ごしているかということ、自分もふくめ誰もがそんな面を持ってしまうことはある、安易にそれを選ぶのか、そうでないのか、そんなことをじりじりと突きつけられる感じがします。

思誠塾の人達から解放されたあと~嘘を語りながらそれに振り回されながら、本当をわかっているお園さんが、最後にひとり口にする台詞。すべてが、ここに集約されるけど、そこに至るまでのこの舞台のすべて、そしてこの台詞を聴くまで、もっともっと感じていたい!そう思う舞台、お園さんでした。

 

〈カーテンコール〉

終幕しても拍手とまらず、 場内の明かりはつかず。そして幕があがりそこには出演者の方全員がずらっと横一列に並んで座ってらっしゃいました!カーテンコールには応えてくださるかもしれない、そんな気持ちはあったけど、まさか全員で出てくださるとは‼️歌舞伎座は広いけど、隙間なく役者さんが並んでらして、そのぎゅうぎゅう感が良くて(笑)自分の目の前には喜多村緑郎さんがいらして、向かってその右には玉三郎さん、左には雪之丞さん、そして上手の方には玉雪さんや功一さんがいらして、雪之丞さんなどは役のままの格好だったんですが、玉雪さんは完全に化粧を落として役でない浴衣の格好、だけどお隣の功一さんは役のまま。事前に「カーテンコールでこのようにして出る」ということは、伝えられていたから、雪之丞さんはだいぶ前に出演の時間が終わっててもそのままでいらしたのかと。だけど、落としておくということを選択されたから、玉雪さんや、他にもいらした素の状態の方がいらっしゃったのかと思います(笑)

なにより、今回の舞台を「歌舞伎と新派の垣根なく」と、また今後もそういった区別なく舞台をつくったら良いと仰ってた玉三郎さんの言葉がそのまま現れた、『ひとつのカンパニー』ということを強烈に感じました。○○だから、そんなことは一切関係なく、この舞台を作り上げてきたメンバー。舞台を観て残る印象もそうでしたし、それが最後の最後にこのような形として心に物凄く響いて、新派の方たちが困っていて…最初はそのようなこともあったと思うけど、そのことを越えて、ひとつのものをみんなで作っていく、それがこのような形になり、こうして受けとることができたこと、何よりも嬉しいことだと思いました。

 

〈八千代座での公演を望む!〉

5月の八千代座公演の口上の時に玉三郎さんが「八千代座でふるあめりかを公演したときに、客席までが岩亀楼のように感じられた」というお話が忘れられず、今回の公演を観て、その体験をしたい!と、その想いが消えることはなかったです。いろんなことを考えたら不可能に決まってるとか、そんな言葉は簡単に浮かんでくるけど、今まで何度も何度もそんな「不可能」が『可能』にひっくり返ってきたことをこの目で見てきて、あきらめるわけにはいかない、そう思ってます(笑)いつかの実現を心から願っています。