やっぱりLiveが好き

目の前の空間を味わうのが好きな人の記録🍀

「坂東玉三郎 シネマ歌舞伎『鷺娘』上映 解説とトークショー」① 6/8 長崎ブリックホール

長崎、遠い・・・でも今年唯一のトークショーだから行かねば!と思って行ってきた!その後音協での講座もあることを後から知ったけど、すでに売り切れ💦

それはともかく、長崎行きを迷った自分・・・やっぱり損得勘定なんて入れたらいかん。行くべし。ちょっとの迷いなんてもう必要ない(←私へ)

 

長崎空港からリムジンバスで40分位。長崎って山と海に囲まれてる不思議な地形なんだなぁということを初めて知ったし、この日の会場も市街地ではあるんだけど山に囲まれてた。

 

第一部

最初は長崎と歌舞伎の繋がりを取り上げた映像。昔は「歌舞伎町」という名前の町があるほど芝居好きな人たちの多い町だったらしい。

その後にテレビ長崎の吉井アナウンサーが司会で登場。今回はテレビ長崎主催のイベントなのでそういうことだったらしい。

この吉井さんがね、とても良い質問を玉さまにしてくださって、っていう話はまたあとで書くとして、まず会場に「長崎県内から来たかた、拍手でお願いします」パチパチパチ!!・・・圧倒的に県内。そして県外からはまばら。ここから、県内ファーストっぽい感じだったんだけど、それは県外から来た者にとって決して不快でも疎外感を感じるものでもなく、とても温かな雰囲気だったのが印象的で、それが最後まで続いてた。

 

次に玉さまが上手から登場。深い紺の袴に薄い青のようなグレーのようなお着物。

吉井さんが「今日玉三郎さんにお会いして、その美しさに驚いたんですが、舞台に上がられるとさらに美しくて。普段のときはスイッチを切られてたりするのでしょうか」と舞台上だとスイッチオン状態でMAX美しいのだ!ということがわかるこの発言。玉さまはにこやかに「ライトもあるので」という感じだったけど💦

長崎について聞かれた玉さま。長崎は12年前に「鷺娘」「藤娘」の舞踊公演でまさにこの劇場に来ていてそれ以来だそう。吉井さん「12年というと干支を一回りする・・・」会場の反応「え!そんなに長い間ぶり!」みたいなどよめきがあったので玉さま「12年というと皆さん随分前のように思われるかもしれませんが私にとってはあっという間で・・・」と仰っていて、玉さまにとってはついこの前のような感覚なのだろうなあという感じだった。

吉井さん「玉三郎さんは海がお好きだそうで」との問いに、玉さま「昨日から長崎に来ていましてホテルから海が見えて・・・」と仰ってて、なるほど!と心にメモった(笑)

で、これから上映される「鷺娘」についての説明。この後の二部でお話していたこととごっちゃになっているかもしれないけれど、長崎県内にはシネマ歌舞伎は上映されてないとのこと。長崎県内でさえ、シネコンは二つ。なので、このシネマ歌舞伎についての説明から。最初にシネマ歌舞伎の話が出たときに、玉さまはあまり気乗りせず、というのは歌舞伎座で上演しているのに斜め前の東劇で上映するなどということはお客様に対して失礼なことなのではないかと思っていた。だからシネマ歌舞伎用に、と別に撮っていた(全部じゃないと思ううんだけど)。だが、こうしてなかなか歌舞伎座まで行くことが難しい方へ届けることもできるし、自分が踊らなくなった演目でも、こうして良い形で見ていただけるし、今ある技術だと撮影当時ではできなかった、雑音をとりのぞいて音をクリアにできるし、やっていてよかったと思う、とのこと。

「鷺娘」という演目自体について。「娘が恋をして叶うことなく、白鷺となって地獄の責めを受けてしんでいく、って飛躍してるでしょ?」みたいに吉井さんに問いかけて、だから「わからない」のだと仰ってた。もちろん「(演じ手として)わかってはいるが、舞踊、芸術というのは理屈で全部説明、納得できることでもなく・・・

舞踊、踊りというのは『魂から魂へ、飛躍して伝わるもの』」と仰っていたことがとても印象的だった。理屈での理解ではなく、心というよりそのもっと奥の、根源のような部分、魂、意図して感じるものではなく・・・この玉さまの表現が凄く好きで伝わるということ自体がこんなにワクワクするものなんだ、という気持ちでいっぱいになる。

でも、「わからない」と仰りながらも抽象的な表現、また具体的に「衣装の色でも見ていただきたい」と、白→赤→紫→朱鷺色→赤→白と変わっていく衣装の色で表しているから(心情の表現、衣装の色に合わせて表現している)ということを説明して下さった。

吉井さん「今日会場には「留学生の方もいらしているということで」玉さま「どちらから(どこの国の方)お越しになったのかしら」と気になるご様子。

「今の(踊り、鷺娘の)説明わかりましたか?」会場「(シーン)」のような瞬間もあり💦拍手で回答、というようなことになると拍手があがったものの戸惑い気味な感じではあり、吉井さんが「実際見て感じていただいたほうが」と言い、それでも玉さまはそこであっさり流すのではなく何度か説明してくださってた。

 

鷺娘自体の歴史についてもお話して下さって「鷺娘」は1762年に六つの面の回り舞台(一つの面に対して一つの演目が出てくる)「六変化舞踊」の一部として踊られたのが最初だったそう。「一人で六つを踊ったのか、六人で一つずつを踊ったのか、二人で三つとか、どのように踊ったのかはわからないけど」と仰っていて、昔はそんなに面白い試みをしていたんだなぁと思った!舞台が回って次は〇〇、とか、面白い。玉さまの言葉で伝えられるとその情景(特に事細かに仰ってたわけではないんだけど)がなぜか浮かんできたし、ワクワクするものだった!玉さまに一度に六つ踊ってほしいなんて大変なことは望まないけど💦でもそんな凄いものが観ることが出来たら圧巻だよなぁ、なんて思いました。

(現在有名なものの中で)京鹿子娘道成寺の次に鷺娘が出来たそうだけど、そんなに長い時間が空かずに二つが出来たとのこと。玉さまが具体的な年数を仰ってくださっていたけど忘れてしまったので調べてみたら、娘道成寺は1753年、鷺娘は1762年とのこと。そのあとは凄く時間が空いた、と仰っていたような。

そして、鷺娘が上映され、第二部へ。

 

第二部

幕が上がると、センターに椅子にかけた玉さま(と思うが前の紫陽花で椅子自体も見えない!)、その前に紫陽花の花が華やかにかなりのボリュームで飾られていておもわず客席がらあがる「はぁぁ!」という声にならない声。

玉さまに紫陽花って合う!素敵。それにちょっとやそっとではなくほんとに凄い量で素敵だったので、すごーく歓迎されているんだぁなってことがそれだけでもじわーっとつたわってくるようだった。

玉さまの背後には、先程まで映像、鷺娘上映で使われていたスクリーンがそのままあって、そこに玉さまのお顔が映されて(この日はカメラあり。テレビ局のイベントだったからなるほど、と)会場がわく。その反応をみて玉さまにっこりしながら「後ろに映ったのかしら」そうです!!そうなのです!玉さまは決してどやっているわけではなく、かといって驚くわけでもなく、うふふって感じでドーンと受け止めてて好きだったこの場面!!

そしてまず第一部でお話した鷺娘について、「わからない」と仰ったことについて玉さま「失礼だったな、と・・・」と申し訳ないような表情をされていた。おそらく鷺娘を見て誰もが「感じ」て伝わっているであろうに、こういうところでも玉さまはいつも考えてらっしゃるんだなぁと思った。でも、誰もそんな風に感じてないし説明のしようのないものの素晴らしさを感じてわかっていたはず。だけどもっと伝わるように説明してくださる玉さま。説明の内容を忘れてしまったのだけど💦この日のすべてのことで玉さまのお人柄が十分すぎるほどみんなに伝わっていたと思う。

「私はお話することが得意ではないので」いったん別の話に飛んで元の話に集約するときも、「あっ!」となにかを思い出してそこから「話が飛んでしまうんですが、皆様の頭の中でつなげてください(笑)」玉さまのお話を聞くときにすでに定番となっているこの言葉(笑)このことをお話されてる時の玉さまがかわいい!!

 

で、シネマ歌舞伎がこちらでは上映されてない事や歌舞伎を上演できる劇場がないことについて。このことを玉さまは今回長崎に来るまで知らなかったことで、なので第一部であれだけの時間を使ってシネマ歌舞伎について説明する時間が必要だった、とのこと。そして歌舞伎ができる劇場がないことについて。ここでお話されたことだったかは定かではないんだけど、その昔、高度経済成長期に、大きい劇場が建てられていた時、玉さまは「もっと小さい劇場のほうがお客様との距離感が良いのに」と思ってそう言ったら、「一度に大勢収容できないと(お金が)回収できない」という答えだったそう。でも、その劇場を回し、果ては維持するということが目的となり、それができなくなるということは目に見えていたのに(そういう長い目でものを見ることができなかったから)今のような現状になっているのでは、とのこと。

最初の長崎と歌舞伎についての映像の中で、昔は歌舞伎も上演されていた、と紹介されていた。が今はそのような劇場がない。

シネマ歌舞伎も劇場についても、(長崎に住む方達が)県なり、然るべきところに要請の声を出すことが大事だと思う、というようなことも仰っていた。

 

そしてその後、玉さまの略歴をご自身でお話された。

小児麻痺を患って歩けなくなったことを心配したご両親が日本舞踊の曲かな?をかけてくださっていたからそれで踊っていたとこと。そのうち日本舞踊を習うようになり、初めての発表会(ではなくてもっと違う名前で仰っていたのだけど、お披露目の会のこと)だったか、初めてではないけど最初の方かな、その会で「禿(かむろ」を踊ることになり、かむろは衣装替えするような演目ではないけど、玉さまは引き抜きをやりたくてそう伝えたそう。それをやるにはお着物ももっと必要になるから、お母様は「しんいちがやりたいっていうんだけど、一枚いくらかかって・・・」とお父様に話したら、お父様は「しんぼうが脱ぎたいっていうならいくらでも脱がせてやりなさい」と言ってくれて、(患ったこと、いつまでこういう姿を見られるかという、恐らくそういうところから)きっと舞台で観られる姿を大切に思っていてくれたのでしょう、というようなことを仰ってた。

そのころから舞台での引き抜き等が好きだったのだと思う、それがずっと続いて今の衣装へのこだわり等へ続いているのかも、というようなことをにこやかに仰っていて、純粋にそういったことが小さなころからお好きで、ご両親の愛を感じる可愛くて楽しくて素敵なエピソードだった。

 

そこからご縁で勘彌さんの芸養子になり、お稽古事が大変で、三味線×2、地唄?三味線、義太夫、琴、胡弓、お茶、お花、踊りはお義母様と、踊りの先生のもとの二つ。描き漏れているのもあるかもしれないけど、とにかく朝から5つくらいものお稽古をしていて、夕方からの舞台出演もぎりぎりの4時に飛び込んで行く、というものだったそう。女形は日常が舞台に出るから、ということで、お稽古事以外にも、勘彌さんが帰ってきたら部屋着の用意(どれがいいのかというのも選んでいた)お酌・・・とにかくあらゆることがそれにつながっていたそう。

玉さまが16歳の時に国立劇場ができて、その劇場の方針が作品の復刻とか、若手の役者が出る機会に恵まれたから、身に余る大役をいただいたのはそういう背景があったから、と。(あくまでも玉さまが仰るには、ですけど。運や時代背景以外の玉さま自身の光る要因が無論あったからだと思う)

桜姫は5時間にわたる大作なので、どこで食べよう?と考えていたと。それは、5時間後でも声が出ているように、といった玉さまご自身が最後までコンディションを保つために必要な考えるべきことであって(玉さまがそう仰ってた)、決して「お腹すく」とかそれだけのことではないと思う(笑)

お義父様の勘彌さんは、歌舞伎以外のことはもってのほか、という考え方で、お義母様は逆で、テレビのオーディションなどに応募していて連れられて行ったものの、当時流行りの顔でもなかったから受けるオーディションはすべて落ちたそう💦

勘彌さんが亡くなられてから、いい意味で歌舞伎以外へも幅を広げてみないかということで、次の年にはマクベスと新派をやらせていただいた。

こうして25歳頃までのことをお話していただいた。初めて聞いたエピソードもあり、実のご両親の温かさ、勘彌さん達がしみ込ませてくれた女方というもの、勘彌さんの指導は厳しいけれどそれだけ習わせてくれるということはとてつもない愛情なのだなと思った。


このお話の後かな?話すことが決まっていても、全く違う話をしたり、とにかく話が苦手なので…と仰ってたけど、全くそんなふうに感じることはなく、そう思ってお話している玉さまがかわゆらしくて(笑)ほのぼのとした気持ちで聴かせてもらってました。


次は質疑応答コーナーへ。