やっぱりLiveが好き

目の前の空間を味わうのが好きな人の記録🍀

「坂東玉三郎 映像×舞踊公演」11/1,2,3 八千代座 その①

※少し直しました


今回、送られてきたチケット封筒に「三十年間ありがとうございました」の文字。いつもは何も書かれていない白い封筒なのに、その言葉の重みがどーんと響いてその封筒を何度も見ることが出来なかった。その年は来年、だけどもうその言葉を聞かなければならないんだな、と覚悟の準備の封筒に見えたから。

パンフレットの背表紙は、玉さまが緞帳が開く前に舞台でお辞儀をした状態でスタンバイしているところを斜め後ろから撮った写真。珍しいね、と友達と話していたけど、その寄稿文は全編にわたって、来年の八千代座公演の区切りに向けてのことを意識した内容だった。玉さまが八千代座に関わられてから今までのことを丁寧に書かれている文章。それを読んだ後に背表紙を見ると、その意味がよくわかった。

 

<口上>

幕が開くと、昔の江戸の女方の普段着の拵えの玉さま。解説が始まってから拝見できるようになったこのお姿が見られるのが嬉しい!張りのある高い声でご挨拶が始まり、まずは八千代座について。(記憶力と数字があやふやなうえにポイントのみ箇条書きなのでざっくりととらえてほしいです💦)

平成二年に下見に来てから、ここで一度踊ってみたい、幕を開けてみたい、というそれだけの思いから八千代座の修復に関わってきた。こういう性格なもので(笑)、(性格が)このままでいい、と思っているわけではないが、まわりが見えなくなるので、私自身がやってきたというより、やりたいようにやっていたら周りが一生懸命動いてくれた。エアコンを入れたことで夏も公演が出来るようになり、床暖房も入れ、お客様が来られるまでは温めておき、入られると切る、そしてそのまま夜の冷気で冷やしており、こうして春夏秋冬、いつでも公演が出来るようになった。

また、市が八千代座横の土地を買い取って、お休み処、待ち合わせ場所として使えるようになり、楽屋も大きくなった。「春夏秋冬」という山鹿灯篭を使った地元の人も加わっての演目では、60人位の出演者だったが、その大きな楽屋のお陰で皆入ることができた。100人は入れる大きな楽屋、とのこと。

舞踊会を始めて今年で29年目、来年で30年になる。私がずっとここに出ていたのでは他の方が出づらくなる。他の演劇人にも来ていただきたい。なので、来年で一旦、一区切りにして、肩の荷を下ろして、今度は客演として呼んでもらえたら(と微笑まれる玉さま)と思っている。来年のことを来年にお伝えしたのではお客様に失礼になりますので、今年発表させていただきました、と。

・・・どの日のことだったか忘れてしまったけれど、今後秋以降、他の方がここで公演すること、そこに玉さまもどういった形かはわからないが、関わってらっしゃるのかな、と受け取れるニュアンスのことを仰っていたので、舞台にご出演されるのかどうかはわからないけど、なにかしらの形で関わっていただけるのかもな、と思った。

また、今回すべて満席で、入れなかったお客様もいらしたので、次回はその方達を優先的に、でも今見に来てくださっているお客様も入っていただけるようにしたい、とのこと。入れなかった方達への優しさと、目の前の私達への心配り、どちらもあったかい玉さまのお気持ちが感じられた。

 

令和になりましてから、頂き物が多く、夏に岩谷時子賞、秋に世界文化賞、先日文化功労賞と認めていただいて、と責任、というか今後の精進、というようなことを仰ってたと思う。

そのお話の時に玉さまの上から降りてくる「文化功労賞受賞」と「高松宮殿下記念世界文化賞受賞」が書かれた看板!降りてきたことに気づいた玉さまが後ろをちょっと見るような感じと照れたような笑顔とともに「八千代座の正面に幕が掲げられていて、私はまだ見れていないのですが(笑)・・・朝来たら、係の者が看板を用意しておりまして、口上のあいだ中、ずっとあるのは話しづらい、恥ずかしいので(笑)、着替え(準備)の時だけ(口上と解説の間だけ看板を出すことにした、とのこと)」と、解説の準備で羽織を脱ぐために舞台袖へさがるとき、いったん看板の方を見てにこっとされてたのが素敵でお茶目だった!

 

<解説・鷺娘>

玉さまが羽織を脱ぐために舞台袖へ入られるけど、そのすぐ後に玉雪さんが、玉さまがお座りになられていた赤い毛氈をぱぱぱっと回収。パンフレット背表紙の写真を見ると玉さまがお座りになられる範囲よりかなり大きいものだとわかる。

そして再び玉さま登場。こういう時の裾さばきが素敵。

 

一昨年演じて好評だった「鷺娘」を再び演じてくださる、とのこと。鷺娘は「柳雛諸鳥囀(やなぎにひなしょちょうのさえずり)」という回り舞台で舞踊を次々見せていく中のひとつとして演じられたのが最初とのこと。この「やなぎにひな、しょちょうのさえずり」と仰る玉さまが猛烈に好き!!なんでだろう(笑)なんかね、耳に心地よくさらさらと聞こえる玉さまの言葉の出し方が私は好きらしい。

で、今年は鷺娘の鷺らしい動きについて、から。袖の中に手を隠し、袖の先をくるりんと内側に丸めて、片足で立ち、くちばしを動かす様、また冒頭部分の足先を動かす部分も演じてくださり、ただそうしている」ということではなくその一つ一つが細部に意識が行き届き演じていることがその形になっている、ということがよくわかった。玉さまは実物の鷺を見て観察されたそう。それがあんなにリアルな鷺のような動きになっているんだなぁ。

傘のこと。最初に使っているのが紗の傘。傘を開閉するときに、カチッと音をさせるかしないか、があり、カチッと鳴らすこともあり、それは三味線の音に合わせて鳴らすとき、だそう。傘のカーブ?具合だったか、そういった細部を作ることが難しいものらしく、職人さんがいなくなってしまったから30年同じ傘を使っているので、破れているところもあるが、道具をだいじにすることは大切、とのこと。紗の傘→引き抜きが見えないよう紙の透けない傘にすり替える時の様子を披露してくださった時、客席から「おぉ!!」の歓声に「本当はお見せしてはいけないところなんですが(笑)」と仰る玉さま(笑)傘をすり替える前かな、ちょっとあやふやだけど傘の角度を持つ位置が鳥のくちばしに見えるように、そういう角度にしているところがあると。

また紙の傘だと(重さがあるから)こういうこともできる、と、傘をふわっと浮かせて反対の手で持つことも披露してくださった。

 

傘を持つ位置、について。傘の柄の部分の下(先端の底の丸い部分)を隠すようにもつのが商売されている女性、そういった仕事をされてる人の「粋」な持ち方であるとのこと。鷺娘は娘なのだから、そのような持ち方をする必要はないのだけれど、玉さまは背が高いということもあり、粋な方の持ち方をされている?っと仰ってなかったかな・・・実際に演じる時にはその持ち方ではなかったような。でも絵の真ん中の方ではなく下ぎみ。

傘を差している時に、胸につけて持つのだそう。傘を立てて持つ、という感じに近いかも。寝かせないというか。そうでないと(うしろに重心を任せて楽に持ってしまうような持ち方だと)小学生になってしまうから、とのこと(笑)確かにこの傘の持ち方一つで美しくも小学生にもなり(笑)、奥深い。そういったひとつひとつからあの鷺娘が出来ているのだなと思うと、細部へのこだわり、それらをきちっとやり遂げることがいかに大事かということがわかる。

 

鷺娘の幕切れについて。もともと鷺娘の最後は二段に上がってそこで見るような(キッと見るような)形で終わっていたし、玉さまご自身もそういったことをする他の役があったけれども、現在の幕切れにしたのは玉さまが最初ではなく、振り付けしてくださった藤間勘十郎先生が他の方(奥様だったかな?)の為に作られたものなので、もともとあった(玉さま以外の方が踊られていた)もの、と。玉さまが勝手に踊りをそうしたのではないですよ、というようなことでした(笑)

あと、海外、メトロポリタン歌劇場などで踊ることができたことも、「恥ずかしいような、いい時代だったような」と振り返って仰ってました。

一日の時には鷺娘の解説の時には玉雪さんのみお手伝いに登場されて、玉さまからご紹介でご挨拶されてたけど、二日からは傘の説明の時に玉雪さんの後ろに功一さんも傘を受け取るために居られて、玉雪さん功一さんお二人ともご紹介されてました。お二人ともご紹介ということにしたのは玉さまが考えられたのだと思うし、そのようにされたことに玉さまのお人柄が表れていていて、この方を好きでいてよかったなぁと思う。

 

<解説・楊貴妃

楊貴妃の歩き方や体の在り方について。歌舞伎、日本の女性を演じる時の歩き方と楊貴妃の歩き方を実演してくださったのだけど、日本の女性の時には内股、内側に向けて歩くけれど、楊貴妃は内側から外側へ、8の字を縦半分に割って片足で半分ずつ描いていくような歩き方というか、説明が難しいけど(笑)、日本の女性の役の時とは逆に足が向いている。

足だけに限らず、体の向き、手の動き方が日本とは逆の向きへ向かうものなんだなぁって初めて知った。手の向きやしなりかたであったり、向きそのものが独特でそれにより楊貴妃の艶やかさを感じられる。

線の美しさ(この辺あやふや💦)を意識されてるそうで、例えば黒髪がまっすぐおりているところに手を添えてスッと下ろすときもそうだし、一見S字の流れかと思いきやなるほど、縦の線!と思った。

 

玉さまは楊貴妃は好きな演目で、音楽もお好きとのこと。昔、勘彌さんに「どんなものをやりたいんだい」と聞かれて「楊貴妃」と答えたら、「そんな(大それた)ことをいうもんじゃない」と言われるくらい驚かれたそうで、それくらい梅蘭芳という方は凄い方、ということ。梅蘭芳とケイなんとかさん(検索中だけどどなたなのこいまだに特定できず)は京劇の女方さんで背の大きな役者さんだったそう。「wikipediaで調べてください(笑)美しい写真がでてきます」とのこと。玉さまからwikiという言葉!!玉さまから現代的な言葉が聞けるだけでにやにやしちゃう(笑)

勘彌さんの前の奥様、水谷八重子さん。玉さまは八重子さんのことを「マミー」と呼んでいたそうで(かわいい!!)八重子さんが持っていた扇子が綺麗で「ねぇ、マミー、その扇子はどうしたの?」という風に聞いたら、八重子さん「梅蘭芳からもらったのよ」と。その扇子を真似て、今、楊貴妃で使ってらっしゃる扇子を作ったそう。八重子さんがもってらしたものは、その骨の部分は、べっ甲でできていたそう。玉さまの扇子はその扇子よりも大きめに作ったとのこと。八重子さんのこともだが、確か、ご両親とも梅蘭芳と交流があったようなお話をされていたし、また、玉さまが行く先々で「梅蘭芳が過去にここで公演をされた」とか「けいなんとかさんがここで~」等と、そういう情報が玉さまのもとにたくさん集まってきて、「これは自分が(牡丹亭を)やりなさい、ということなのかな」と受け止めたとのこと。この話の冒頭で玉さまが「憧れというのは叶うんですね」と仰っていたのがとても印象的だった。その想いを持っていたからこそ、のちの牡丹亭への流れがあったのだろうし、そういったことを気のせいにしないで流れに乗ったからこそ、その後の、今の玉さまへと続いたのだろうと思った。

踊りの中で出てくる紐。それは手紙を表していて、実際に手紙を使うよりも紐で表した方が~、とのこと。ちょっとあやふや💦

解説が終わりご挨拶。八千代座、山鹿を今後ともどうぞよろしくお願いいたします、というお気持ちにあふれていらした。外を歩いていても、去年よりも山鹿の町は観光に力を入れてることがよくわかった。玉さまの助言・提案や行動力、そして地元の人達、実行委員の人達、双方が今まで工夫をし努力されてきたから今の山鹿が、八千代座があるんだなぁと思う。来年春の公演のことを考えると、今からいろんな思いが湧いてくるけど、できることならこのご縁が別の形であっても途切れることなくどうか続きますように、と願っています。