やっぱりLiveが好き

目の前の空間を味わうのが好きな人の記録🍀

「坂東玉三郎特別公演」南座@京都 3/21,22,26 <阿古屋>

千穐楽の日、さすがに阿古屋塚には行っておきたいと思って、少し歩いたところにある六波羅蜜寺内の阿古屋塚にお参りしてきた。

本堂のすぐ左側にあるおおきな石の塚。玉さまも協力して作られた防風などの為の囲いの屋根のようなもの、由緒碑、それらがあってちゃんと奉られてる。後から聞いたのだけど、「阿古屋」という人物は(恐らく)存在しなかったにも関わらず、話の中のゆかりの地であるここに塚が建てられているとか。でも、あの場所に居て、なにもない、存在しないという感じがしなかった。阿古屋という精神、昔の遊女に対する想い、お参りする人の気持ちが、何かを生み出し「在る」ように感じられるような場所になったのかもしれないな、と思った。

ただの観客である自分だけど、おこがましいっちゃおこがましいんだけど、その阿古屋塚で、今まで玉さまが無事に演じて来られたことへの感謝、今日も無事に公演が終わりますように、とお伝えし、またいつか、出来ることなら玉さまの阿古屋にお目にかかれたら、とそんなことを思って、南座へ。

 

初の南座。入ってすぐ客席だから歌舞伎座のようなスペースがない。南座の立地に劇場を立てるということ自体が凄いと思うけど、だからこそ、あの密な空間で阿古屋が演じられる、阿古屋を感じられる幸せが味わえるから、南座公演は外せないなと思った。

 

花道の出の阿古屋、阿古屋の在り方、感情が玉さまの身体を通して伝わってきて、その哀しさ、気高さ、存在の大きさが感じられた。

重忠役の彦三郎さん。歌舞伎座で拝見している時から、そのお声の良さが物凄く心地よくて、聴き惚れるくらいの声質に声の大きさ。大きいからって決してうるさく感じない。歌舞伎座を経て南座で再び重忠を演じることについて、雑誌でのインタビューでお話されてて、それを読んで自分の予想もつかないあまりの奥深さに驚いて感激した。そのインタビューの一部。↓

 

玉さまの指導について

「これまでにも教えていただいていますが、丁寧で、的確で、たとえがとてもうまいし、わすれがちな初歩を思い出させてくださるんです。若い時の教わり方は理屈抜きでこうしろが正解だと思いますが、玉三郎のお兄さんはその先。『どう考えてるの?』と尋ねて対話してくださるんです」「ぐさっと来たのは『おじいさんだったらそんなことはしないよ』。祖父(十七代目羽左衛門)はお兄さんを可愛がっていましたから、よくご存じだし、図星だし。しかも突き放したように仰るので、その瞬間は谷底へ真っ逆さま(笑)でもその悔しさも含めて、とても幸せな時間でした」

 

12月の成果を買われ、3月南座でも重忠を任されることになったことについて

「12月の重忠を『いいわよ』と言っていただけた安堵感はあります。それは梅枝さん、児太郎さんのおかげでもあるんです。もし阿古屋がお兄さんだけだったら、遠慮して終わっていたかもしれない。でも、若いふたりが阿古屋の際には圧倒する感覚を味わうことができた。それをもってお兄さんの阿古屋に対峙できたというのは凄い経験だったと思います。でもなんにしても、お兄さんが求めていらっしゃるのはそのはるか上でしょう。3月は覚悟して臨みます」「玉三郎のお兄さんが熱心に教えてくださるのは、後世に伝えろということだと思うんです。自分で終わっていい話じゃない。・・・略」

 

一部っていうか玉さまに関する記述全部(笑)💦お借りしました。

12月の梅枝さんたちとの重忠があって、そして今回の玉さまとの重忠がある。ただ同じお役をやるのではなくて、相手が変わることで芝居が変わり、胸を借り、どんどん円を描いて大きくなっていくような、そしてそれがまたどこかに渡される、そんなイメージがして、重忠というお役一つとっても、こんなに広がり続けていくものなんだ、それを玉さまは指導しながら見守ってらっしゃるんだなぁと思って、歌舞伎の無限の広がりとその面白さ、凄さをここで感じてそういうところに立ち会えているんだなと思うと凄くわくわくする気持ちになった。

 

で、今月の南座での重忠。筋書の中で彦三郎さんが「岩永は阿古屋の外見に惚れているが、重忠はその内面に惚れているのではないか」とも仰っていて、阿古屋のそうした部分に感じ入る重忠の美しさというものが、彦三郎さんが演じることで現れていると思った。

亀蔵さんの岩永も、松緑さん、玉さまの岩永ともまた違って、どっしりとした重さというより動きに軽快な部分もあって、また新たな岩永だなぁと思った。

功一さんの榛沢。功一さんもお声が良くて、その声の力強さと阿古屋に対する眼差しが凛としててカッコイイ。

後見の玉雪さんも、見ていてかっこいいんだよね・・・。玉さまと息を合わせて察する力、心配り、簡単に出来ることではないと思う。

 

そして玉さまの阿古屋。お琴の時。この時の阿古屋の歌も凄く好きで、淡々とお琴を弾く中で、その抑えた感情が静かな中だからこそ余計にその感情が深く感じられて、お琴の音色の美しさと、どこかを見つめて想うような哀しさがいつのまにか自分の中にも浸透してくる。

重忠に、景清とのなれそめを問われた阿古屋。阿古屋が語ると、その情景が浮かんで阿古屋と景清、そこに流れる空気までわかるようで、あったかいものを感じる時間。そんな想い出のある阿古屋が今の状況…重忠、岩永の前で堂々と在る姿に阿古屋の強さ、育んできたものの大きさ、阿古屋という人の美しさが感じられる。

その次のお三味線。歌舞伎座では、阿古屋と一緒に弾き唄う勝四郎さん勝国さんが下手側、上手側に他の三味線方の方々がいらっしゃるんだけど、今回は勝四郎さん達も皆上手側(上段)。そうなったことで、下手側には阿古屋一人となり、阿古屋と皆さん、のような聴こえ方になった。しかも、今回は阿古屋は勝国さんとだけでなく、義太夫の三味線との合奏になった部分もあり、その分音に厚みも出ていた。でも、以前と同じように、阿古屋の三味線に勝国さんの三味線が入る、お二人での演奏ももちろんあり、あの鳥肌が立つような感覚の場面を今回も観て聴くことができて、本当に聞き惚れる三味線の演奏だった。そこに勝四郎さんの唄が入ることでさらに心地よくなり、この阿古屋でしか味わえない本当に贅沢な時間だなあと思う。

そして胡弓。演奏が進んで胡弓になると、その音とのびやかさが劇場中に広がる。

阿古屋が胡弓と一体となり、その音と私達も一体となるようで、言葉では言い表せないような何かが浸透してくる。そこに感想もいらなくなるくらい満たされて、それだけで十分という気持ちになった。

 

今回の阿古屋が最後かもしれないということ、でも、そんな思考を握りしめてたら目の前のこの瞬間の、この空間そのものが感じられない。前日までは、そんな思考で寂しくなっていたし、終わった後もそういったことを考えて、そういう感情を感じ続けるんだろうなと思っていた。

でも、そんな思考が吹き飛ぶくらい、ここに居られたこと、感じたすべてで、満たされた。その凄さを言葉で語ることなんてできないくらいとても大きな何かで、そういったもので埋め尽くされる空間、時間、自分、が心底幸せだった。