やっぱりLiveが好き

目の前の空間を味わうのが好きな人の記録🍀

「坂東玉三郎トークショー その①」 6.24 シベールアリーナ@山形県

14:00~15:30まで休憩なし。玉さまは黒っぽいパンツに黒の革靴、グレーの光沢のあるジャケットで襟に黒い縁、白シャツに黒っぽいネクタイ姿。ジャケットが夏っぽいのと縁がコンサートのときにお召しになっているものに似ていて素敵。

 山形との縁

最初にこのホールの地、山形とのご縁について。弟子が山形出身で(友達に聞いたところ、このお弟子さんは功一さんのことでした)毎年帰るからよく知っている、と。功一さんが毎年帰省を楽しみにされているのか、そのことを玉さまがよくご存じな感じで、そんな温かさを感じられるお話の仕方にも感じられて、功一さん、愛されてるなぁ(人間的に)ってしみじみと思いました。ちょっと自慢な、うちのなんとかがね、みたいに感じで。決して自慢などしないでしょうし、褒めることでダメになるって玉さま仰ってますし(笑)でも、そんなことさえ想像できるような短いながらも心に残るエピソードでした。

ほかにも、玉さまが小さい頃からお世話になっていた、歌舞伎座で照明をされていた相馬清恒さん。この方の出身地でもあり、玉さまが照明の基礎を教えてもらったそう。相馬さんとのご縁で山形で公演が行われ、調べたら平成八年、相馬さんが亡くなられた年に「相馬清恒氏照明家生活60周年記念/坂東玉三郎特別舞踊公演が開催」このことかと。このエピソードのことを指すのかわからないけど、相馬さんのご縁で山形で公演をすることとなり鐘が岬を踊るとなった時に、功一さんが出身地なので故郷に錦を飾る、ように功一さんが後見をされたと。それで以後も鐘が岬は功一さんが後見をすることになったそう(トークショーでのお話ではなく、友達から聞いたところによると)。功一さんと相馬さんはご近所で仲良くされていたらしいです。

ここから照明のお話になり、戦前と戦後では照明は変わってきた、と。昔は夕方になり暗くなりやっと豆電球一つつける、だから暗さの移り変わりもあり、明るさ暗さをよく感じられた、と。戦後は復興の意味もあって明るくなることを目指した結果、今はどこにいても、お家、コンビニ、駅・・・いつも均一な明るさで暗さやその移り変わりを感じられることはできないと。玉さまご自身も戦後生まれだけど、そういった移り変わりを相馬さんは表現される方だった。玉さまは、その外の明るさ、暗さが家の中に居て移り変わっていく様子を説明する言葉や表現の仕方が情緒的で、まるで自分がその心で体験しているように感じられてとても素敵だった。

黒澤監督の映画の照明の方・・・ではなくて、話の内容と玉さまが仰っていたお名前から検索で出てきた結果、「羅生門」「用心棒」のカメラマン宮川一夫さんのことかなと思うんだけど・・・三船敏郎さんが寝ていて風が吹いている、というような場面を映すのに、そのまま映したのでは風が映らない。だから木の葉っぱが揺れているところ越しに移すと風が吹いていることがわかる。そのような映し方をされていた方。このかたの存在もあり黒澤映画が成立していたということも言えるのでは、と仰っていて、玉さまは本当に様々なものを見て理解されてるのだなぁと。

新派の照明の方のお話も。「十三夜」に出演された際、玉さまの後ろに月があり照らされているから常に自分の前に自分の鬘の影が映っていた、と。少し調べてみたら、主人公の「お関」が玉さまだったそうで玉さまと舞台のぼんやりとした月が美しかったそう。そういったこと、細部を理解してできる方は昔はいらした、という感じのお話でした。

梅川さん「今日の会場の照明のディレクションも始まる前に先生(玉さま)がされて」玉さま「歳が歳だから(笑)、影が多くならないように左右から光(明かり)を足しました(笑)」と笑いにしていたけれど、温かみのある暖色系の照明、質問コーナーになると、会場も少し明るさをましていて。始まる前に自ら照明のことも考えてみてくださってるなんて玉さま凄すぎます・・・。

歌舞伎について

梅川さん「次は歌舞伎についてですが、今まで演じられた印象的な役、演目などを教えてください」玉さま「印象的な役とというのはない(決められない)んですが・・・ひとつひとつ役が違うし役の周辺しか語ることはできないけど」ということでいくつかの役についてのエピソートを披露してくださり、一つは「京鹿子娘道成寺」。25歳(たぶん)で初めて南座道成寺を踊ることになった時、道成寺というのは女形を演じる上ではやはり大役なので「セリフひとつ言えたら帰っておいで」と言っていた実母(そんなに歌舞伎に詳しくなくても)も、道成寺をやるようになるなんて、と感慨深かった(というような様子)ですし、実母は踊りが出来たから言わずもがな。歌舞伎の道に入るうえで賛成だった実父はその時他界しており、南座で見てもらえる!と思っていた義父も倒れてしまい、南座での興行が終えて三日後に他界されてしまったそう。実のお母さまは、「(息子の)道成寺を見れたらしんでもいい」と言っていたのが、道成寺を二回目、三回目、とうとう五回目となった時「道成寺、五回目なんだけど・・・(笑)」というお母さまとのエピソードを楽しくお話していただいた。それだけの意味を持つ演目を踊れるようになったことで、見えてきた玉さまのご家族の方からの、ご家族に対する思いがよく感じられて素敵なエピソードでした。

「梅川さんに聞かれる前に答えますけども」と続いてのお役に付いて答える玉さま。梅川さんにとって玉さまと一緒のこの場は修行でもあるよなぁ、と毎回思う(笑)鍛えてくださっているというか。ありがたいことだろうなあ。

次は「阿古屋」・・・阿古屋について「もうなかなかできないけど・・・」と。その後に「今、後輩が練習していまして(教えていまして)、これが阿古屋ですという(完璧なという意味のようなことかな?)そういった阿古屋としてはお見せできないかもしれませんが、皆様にお見せできる日は近い」と。後輩の方が着々と練習していて、玉さまも嬉しそうだった。だけど、この言葉をどう受け止めたらいいのか。たしかどこかのトークショー、明大?忘れたけれど、その時に玉雪さんから「あと一回できますよ」と言われて、だから会社にはやるなら早くって言っているのだけど・・・と仰っていたはず。私はまだ舞台で阿古屋を拝見したことがない。玉さまが演じることが出来るのであればそれはどうしても見たい。というのが正直な感想でした・・・。

阿古屋をシネマ歌舞伎にするといわれた時、岩永以外はほとんど動いてないのにどうしたらシネマとして成立するのか相当悩まれたそう。それでも、始まる前の素の姿の時と緊張感、舞台にでたあとの違いを感じていただけるように舞台前の様子も入れてみたと。結果的に、阿古屋は今までのシネマ歌舞伎の中で一番お客様に入っていただけた作品になったそう。

日本橋」最初にお話をいただいたとき、てっきり(役柄から)清葉を演じるのだと思っていたそう。お考の役柄(性格)を思うと、お考のことはないものと思っていたと。で、お考は演じてきたが清葉を演じる機会がないままになってしまったが、実は撮ったものがあるそう。日生劇場日本橋を演じたとき、清葉を演じて撮ったものがあるそうで、存在するのならぜひ見られる機会を与えていただきたい!!

泉鏡花作品・天守物語」泉鏡花作品はお客様が入らないものとして有名だったから、玉さまがやりたいといった時に反対されたそう。でも、幕が開いてから、松竹のプロデューサーさんがこんなに(良い?素晴らしい?そのようななにか言葉)良いものが出来るとは思っていなかった、実は反対していたのは私でした、と告白してくださったと。天守物語で使用した二曲、たしか外国の曲(はっきり仰っていたけど曲名を忘れてしまった)それは聴いた時に「天守物語に合う」とピンときたと。なんの曲なのか気になる・・・。

歌舞伎以外での活躍について

梅川さんがその例えとして「演出、映画監督・・・」と上げたことに対して「〇〇と○○と・・・あと何だった?」って確認されるのがきっちりされてるなぁと思って。極力そのままを答えてくださろうとする姿勢が印象的で。で、歌舞伎以外のことについて。義父の勘彌さんがご存命だった時は、女形が崩れることを心配して?か、ほかのものはやらせてくれなかったと。でもどうしても出る必要のあるテレビなどは少し出たけど・・・うふ(笑)。って(仰ってはないがそんな感じ)が可愛かったです・・・(笑)。

勘彌さんが亡くなられたら、それまでその方針をわかっていた方達からのオファーが一気に来てて、それでマクベス夫人を始め歌舞伎以外の様々な役を演じられたそう。でもおかしな話で勘彌さんのお父様は翻訳物など歌舞伎以外の様々なものを演じていて、だから腹の底では思っていることは違ったのでは、と。

新派では、じの着物(どういう字なのかわからない)を着る必要があり、それは体の線がそのまま出てしまうので、花柳章太郎さん(新派の女形の方)はどうしたら線が綺麗に見えるか、小さく見えるか、など研究されていて、衣装のために一生借家で家を持たなかったくらいかけていたことをとても尊敬されてる、と。玉さまは歌舞伎から新派へ移られるのでは?と周囲から思われていた時もあったが、そのつもりはなかったそうです。新劇では、歌舞伎のようにいつも同じひとたちで集まってものづくりをするのとは違いその都度集まって解散、という違いがありったことが驚いたと。

鼓童は、最初にお願いされてからしばらくは太鼓を打つ人を前にして何をしたらいいか、何が出来るかわからなかったと。それを知ろうとして五年かけてアマテラスを作ったこと。その中で知って行ったと。そういえば歌舞伎では常に太鼓が使われているしなじみがあると。私は離れましたけど、来月ここで公演があるんですってね、どうぞ皆さま来てください。と仰ってました。

映画について。舞台ではだいたい役者が一番人数が居て関わるスタッフはそれより少なく出来るけど、映画はその五倍の人数が関わってくると。休憩の時に、細かな判断を求めてくる人の行列ができるくらい、わからないことでも答えなければならなかったそう。玉さまもいろんなことを瞬時に判断できる方だと思うけど、それにしてもいかに映画を作るということが大変か、すこし教えていただいたような気がする。

自分の体のこともあったから将来演出の仕事をしたいと思っていた。だから舞台を観ることは勿論、たくさん絵を見てありとあらゆる音楽を聴いて照明のこともいろんな方から教わった、と。あと、新派のお話の中でのことだったか、井上ひさしさんのお話もお好きとか。「頭痛、肩こり、樋口一葉」ははふざけたタイトルだなぁと思ったけど(笑)お話がとても良かった(というようなこと)と仰っていた。あともう一つ挙げられていたけど忘れてしまった汗。

海外へ行かれていた時のこと

イタリアへは何度も行っているが、シチリア島へは行ったことがなかったのでそこへ行かれたそう。それからパリ経由?でほかにイギリスも。遺跡?へ行くときに歩いて30分かかったから傘をさしてても(腕辺りを指さしながら)照り返しで焼けた、と(笑)フランスのモネのアトリエに行き、モネのアトリエ(家)は通常は撮影NGだけど許可していただいて、撮影してきたそうです。モネの池の横では、閉館になった後にお着物で写真を撮らせていただいたと。和歌山にもモネの池に似たところがある素だから、それを見た人が(撮影禁止の場所だから)現地ではなく和歌山で撮ったと、思われたらどうしよう、と笑ってらした(笑)それを聞いてから和歌山が気になってきて、どれだけ似せてきているのか、と。間違われたらどうしよう、と心配する玉さまが可愛かった(笑)!でも調べても和歌山でモネの池に似ているところがない・・・有名なのは岐阜らしいんだけど、だとしたら何をどうして和歌山と間違われたのか・・・これを機に和歌山へ行ってくださらないかなぁ。私も和歌山に行ってみたいし、遠征ならば必ず行くから!!

あとゴッホのアトリエにも行かれたそう。ゴッホのことを誤解していた、この話をすると涙が出そうになるんですけど・・・と胸に手を当ててお話を始められて。よくわからない絵がなぜ何十億というお金で取引されているのかが理解できなかったと。ゴッホは生前絵で生活することが出来ず、弟さんに仕送りをしてもらいながら、友人にたまに数枚絵を買ってもらいながら、耳を自分で切ってしまうくらいの錯乱状態になったり、そんな中で30何歳の生涯を終えた、と。最後は弟さんとも仲たがいをして、仕送りができない、そういう終わり方をして弟さんもゴッホがなくなってすぐに同じく30何歳で亡くなったってしまったけど、でもお墓は隣同士になっていると。

今回、ゴッホの絵が飾られている美術館の閉館時間のお掃除のときに見せていただくことが出来たのでお一人で観ることが出来、そうして静かに絵と対峙、向き合ってみたら、ゴッホの精神の透明さがよく分かった、と。ひとつひとつの筆の跡、それに寸分の狂いもない。亡くなるちょ直前に書いた絵のことだったかな?そういう錯乱状態なのに精神は透明。絵に描かれている場所も見たけれど、当時と変わっておらず、ただ現実にはそんな色の田んぼはないけれど、現実よりも美しい田んぼが描かれている。描いているのは現実の筆だし絵具だし風景だけどそれ以上のものを生み出している、と。現実の向こう側。それが素晴らしい、と。生前はあんなに苦しく生きていたのに、なくなった後に評価されて。あの絵を見たらそういう数十億とかいう単位で買われているのだということがわかる、と。誤解していたし、誤解もされていただろう、と。ゴッホの精神について、それを「透明さ」と表現する玉さまの感覚、それを伝えようとするときと玉さまの思いの強さがひしひしと感じられてこの時は圧倒された。

イタリアかフランスだったか・・・向こうは日没が遅くて20:30頃、暗くなるのは21時ころだから、夜空を見ることがほとんどなくて、朝から動いているから22時ころには眠くなってしまうし、たまの夜の時間の移動の時にやっと見ることが出来たそう。最後に(国名忘れた💦)野外でのピーターパンを見てきたけれど、お話し内容は第一次世界大戦後、傷ついた人たちのもとにピーターパンがやってくる、というもので、これがとても良かった、と。皆体幹が出来ていたから踊れるんじゃないかしら?と。そういう目線がやっぱり違う。瞬時に見抜いてしまうんだろうなぁ。

お休みの時の過ごし方、至福の時について

海。海の中は重力がかかからない。踊りでも立役は跳ねることがあるけど女形にはそれがなく床を這うような、いかにぬめる(?)かと言うことだし、また重力がかかっているのそれを感じさせいような動きも多い。海の中はそれをしなくても重力がなくて解放されるから(好きなの)かしら、からと。

その②へ続く。